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Nr. 530 Oktober 2025
さて、今回は亡くなったある老夫妻の遺品整理が話題になっています。
2024年11月24日の放送のために、放送作家のリーシュケさん(Frau Lieschke)は、ライナーさん(Rainer)とウルゼルさん(Ursel)という老夫妻について人々から聞いた話をまとめました。彼女に特に詳しく話してくれたのは、夫と子供たちと一緒にその老夫妻の住む階の下の部屋に引っ越してきた女性でした。その頃には夫のライナーさんの体調がもう既に良くはなく、ウルゼルさんが彼の世話をよくしていました。
集合住宅では、隣人と言う場合自分の住む部屋の左右に住む人たちのことを思い浮かべます。しかしながら、各階に一つまたは二つしか部屋がないような小規模な集合住宅では、上下の階に住む住人たちも隣人として感じられます。
ここで話題になっている住居は、通りに面した広い部屋が3つ、裏側に細長い部屋が2つ、それにキッチンと浴室がある構造です。その老夫妻がそこに引っ越してきた時、彼らはまだ若かったです。住宅が不足していて、彼らはクランツ一家(Familie Kranz)と一緒にこの住居を使わなければなりませんでした。浴室は老夫妻が使い、キッチンはクランツ一家が使いました。それは東ドイツ時代のことで、住居は協同組合方式により管理されていました。クランツ一家は1991年までそこに住んでいました。その後、クランツ一家のキッチンは、彼らのビデオ部屋になりなりました。そこでは、カセットテープやビデオが天井まで三列に積み上げられていました。
ライナーさんは出版社の音楽担当編集者で、彼の妻はテレビで放送された多くの文化番組を後で見返すために録画していました。しかしながら、今では二人とも亡くなってしまい、子供もいませんでしたので、その住居からすべて片付けなければなりませんでした。それを担当したのが、ミヒャエラ(Michaela)さんというファーストネームの女性でした(彼女はライナーさんのホスピスの付添い人であり、後にウルゼルの友人となった人です)。彼女は片付け作業の際に、たくさんの興味深いものを発見しました。
ウルゼルさんは母親を早くに亡くしていたにもかかわらず、陽気な人でした。また、彼女は大抵楽観的でしたし、彼女の笑顔は周りの人にも伝染するほどでした。彼女は誰かが訪ねてくると、とても喜んで、その喜びが階段の踊り場まで聞こえてくるほどでした。誰かがドアのベルを鳴らしても、ただドアを開けるだけではなく、その訪問を心から歓迎していることを伝えていました。
片付けの最中、ミヒャエラさんは1枚のメモを見つけました。そのメモには、ウルゼルさんがウルゼルさん自身とライナーさんそれぞれについて、否定的な性格を2つ、肯定的な性格を3つ書いていました。彼については、気分屋でサッカー中毒、しかしながら、芸術を愛し、優しくて、とても知的であるとのことでした。彼女自身については、美に夢中で、倹約家ではないけれど、寛大で、楽観的で、感激しやすいとのことでした。
東ドイツでは、ほとんどの住宅が私有ではなく、協同組合の所有でした。彼らが住んでいた住宅もそうでしたが、住宅共同組合からだれかが来るのは、例えば、水道管が破裂したときなど、よほどひどい状況の時に限られていました。屋根の損傷くらいでは修理して貰えず、たとえそのせいで雨が部屋に漏れてきても対応してくれませんでした。あるとき、これまでに何もなかった場所から雨漏りが始まり、それが余りに激しくて、電気配線が雨水に浸かり、ブレーカーが落ちてしまったことがありました。
彼らの下の階に住んでいた隣人の女性は今でも、覚えていますが、ウルゼルさんが彼女のところに来て、「東ドイツの国家評議会議長(当時はエーリッヒ・ホーネッカー氏)に嘆願書を履歴書も添えて問い合わせたのに、全く返事がないのよ」と言っていたことがありました。問題になっていたのは、屋根の穴で、激しい雷雨が降るたびに天井に染みができていました。ウルゼルさんは、嘆願書のためにタイプライターで3ページ書きました。その嘆願書と履歴書の原稿の写しは夫がファイルに綴じて保管しました。
ウルゼルさんには姪が一人いて、その姪が話してくれたところによると、叔母のウルゼルさんは、図書館司書になりたかったか、あるいは芸術や文学に関する何かを学びたかったとのことでした。しかしながら、ウルゼルさんの父親がナチ党員でした。東ドイツでは多くの人が大学進学を許されませんでした。ウルゼルさんの場合も、父親がナチ党員だったことが理由で進学ができませんでしたが、保育士としての職業訓練を受けることができました・・・。
さて、今回の放送のベースとなる部分を取材・レポートしたのがUte Lieschkeさんであることから、この名前をヒントにネット検索したところ、放送のテキストで言及されている、住居整理の最終日の画像(入り口のドアに飾り付けられたコラージュ)と思われるものを見つけることができました。10週間かけて住居の整理が行われ、とうとうその最終日がやって来ました。ドアには彼らがまだ若かったころの夫妻が微笑んでいる写真、新聞、雑誌それに楽譜の一部に加え、レコードとCD各一枚等がドアに貼り付けてあります。これにより当日の状況がとても思い浮かべやすくなりました。訪れた多くの人たちは各自思い思いに老夫妻を偲んだのだろうと思います。また、テキストに記載のあるHaushaltsauflösung: 60 Jahre Sammel-Leidenschaft — 18. 3., 10 – 17 Uhr(「住居整理:60年間の収集への情熱 — 3月18日、10時から17時」)という文言も見えます。
ところで、今回の課題および放送を通して驚いたことや印象に残ったことがあります。それは以下の通りです。
まず、驚いたのは、老夫妻の蔵書が3万冊もあったことです。夫が音楽関係の編集者であったことを考えれば、当然なのかもしれませんが、個人所有の蔵書としては非常に多いと言えると思います。ある統計によれば、日本の市区町村の公共図書館の平均蔵書数は、約13万5千冊というデータもあるようですから、3万冊が個人としてはいかに多いかがわかると思います。ところで、これらの本の行方はどうなったのでしょうか。単に廃棄されてしまったのか、それとも10週間の整理の期間に希望者に無償で提供されたでしょうか。ミヒャエラさんたちが部屋の片付けをしたときに、車2台を満杯にした廃棄物があったということですから、本もそれらのトラックに積載されたものに含まれていたのでしょう。
次に驚いたのは、上記の蔵書数とも関連していますが、上の階に住んでいたその老夫妻が亡くなり、その部屋が片付けられると、その下の階に住んでいた家族の部屋の天井が、何と2cmも持ち上がったことです。老夫婦が職業柄所有していた3万冊もの蔵書、楽譜、レコード、ビデオテープ、雑誌などがそれほど重く、床を押し下げていたということなのでしょう。加えてグランドピアノもありました。彼らの住んでいた住宅は共同組合によるものでしたが、当時の東ドイツではごく一般的なものだったのだろうと思います。多くの蔵書やグランドピアノなどの重量を想定していなかっただろうと推測されますので、その構造がそれほど強靱ではなかっただろうと思われます。
さらには当時の東ドイツでは、雨漏り程度では修理が来てくれないことのことでした。それほど住宅政策はお粗末だったようです。実際、ウルゼルさんが当時の東ドイツの国家評議会議長宛てに嘆願書を履歴書も添えて問い合わせたことに驚きました。窮状を訴えるために国家評議会議長宛てに嘆願書を送付する大胆さにも驚きましたが、そうでもしないと住宅の修繕が見込めないという状態にも唖然としました(実際にはそうまでしても回答はなかったとのことでしたが)。雨漏り程度では修理をして貰えなかったのは、恐らくウルゼルさんの事例が特殊なものではなかったと想像されますので、一定の数の人々が同じような経験したのだろうと思います。
ところで、ウルゼルさんについて印象に残ったことがあります。彼女が来客を迎える様子が課題・テキストに描写されていますが、彼女の陽気さと階段の踊り場まで来客を迎える彼女の声が聞こえてくる様子がありありと目に浮かびます。恐らくお客さんを迎える時だけでなく、友人や知り合いとの普段の付き合いにおいてもその陽気さは十分発揮され、場の雰囲気を和やかなものにしていたのだろうと思います。彼女が窮状を訴えるために国家評議会議長宛てに嘆願書を送付する大胆さもありましたが、一方では、彼女には陽気さがありました。これら二つの性格を併せ持っていたウルゼラさんはとても魅力的でしたし、印象に残りました。
また、ドイツの民法はよくわかりませんが、老夫妻の財産(住居にあったものではなく、例えば金融機関に預けていたと思われる財産)は姪が相続したのでしょうか。それとも遺言によりどこかの団体に遺贈されたのでしょうか。また、ミヒャエラさんが住居にあった遺品・財産の整理・処分を行いましたが、普通日本では血縁者が行うものと思いますので、この老夫妻の場合、姪ではなくミヒャエラさんが行っていたことがちょっと気になりました。
K. K.