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Nr. 531 November 2025
さて、今回は「日常生活における建造物に対する認識」が話題になっています。
街を見るためにどこかに出かけるとき、自分がいるその場所をかなり注意深く見ます。しかしながら、自分が住んでいる街では、自分がどのような環境にいるかはほとんど全く気にしません。そこでは、何も意識して見ていなくて、ほとんど何気なく通り過ぎてしまします。そこでたくさんの建物がどのように建てられているか、もし意識して見てみると、多くの人は余り美しいとは思わないかもしれません。しかしながら、大抵の人はそのようなことにはほとんど注意を払いません。彼らはすべてにすっかり慣れきっているという感覚があり、ほとんど何も意識して知覚していません。
何年かぶりに、かつて長く住んでいた場所に戻ってきたとしても、大きな変化がなければ、すぐにすべてがまた馴染み深く感じられます。逆説的に聞こえるかもしれませんが、深い親しみがあるにもかかわらず、日常的な環境ほど、自分を取り巻くものに対して目が向かなくなる場所はほとんどないと言わざるを得ません。
それを信じられない人は、記憶を頼りに向かいの家の外観をちょっと描写してみて欲しいです。あるいは逆に、家を出たときに、そこで見える光景を意識して、ちょっとじっくり見てみるべきです。そうすれば、今までまだ全く気がつかなかったようなことを、いくつも発見するかもしれません。
心理学者たちは、私たちが日常の環境を意識的に認識することが難しいのは、すべてが人間にとって余りに大きすぎるからだと考えています。人間は常に逃げる準備をしていなければならない生き物であり、だからこそ、どこに出口があるかを常に知っていたいと思っています。従って、人は通り過ぎる建物の構造・建築様式をほとんど認識しないか、またはせいぜい輪郭として認識する程度なのです。
更に、都市の建築は、ドイツの美術・建築理論家ルドルフ・アンハイム氏が70年代に指摘・認識したように、都市において建物が連続して並ぶことで、三次元性を失ってしまいます。街を歩いていると、彼によれば、私たちはもはや建物の正面だけを見ていて、それらが二次元的な長い壁のようにつながり、まるで山岳地帯の「絶壁」のように見えるのだといいます。これによって、個々の建物の独立性がもはや意識されなくなってしまうといいます。人は、自分が住む街では建物ではなく、それらの建物によって形づくられた通りを基準にして空間を把握するといいます。
あるデンマークの建築家で都市計画家が、どのような都市計画がそこに住む人々のニーズに最も適しているかを調査したところ、中世の都市の寸法が最も適しているという結論に至りました。そこでは寸法が人間の寸法や人間の認知の仕方に合致しています。なぜならば、建築方式が基本的には時速5キロの歩行速度に合わせて設計されており、さまざまな感覚的な刺激・知覚を提供しているからだといいます。
建物はかなり低く、家が隣り合って並ぶような長い通りはないといいます。そこは視界は常に弓なりに曲がり、カーブした通りや小道によって遮られ、それらはさまざまな大きさの広場へとつながっています。家々は立体的な構造物として認識され、建物の正面はとても変化に富んで設計されており、通り過ぎるときに視線が疲れることがないといいます。
人が暮す都市を知覚することは、今日では多くの情報や刺激が注意をそらせることによっても、妨げられています。例えば、風に揺れる街路樹の葉、道路交通や歩行者のための信号、車のブレーキ音、聞こえてくる外国語、見える広告、そしてさまざまな匂いや香りなどがそれに含まれます。従って、人は建築された環境をほとんど決して意識することがありません。しかしながら、ひょっとしたら、それは良いことなのかもしれません。なぜならば、日常の建築はしばしば、疑わしい品質のものであるからです。しかしながら他方では、一人一人が建築された環境と意識的な関係を持つことはやはり良いことでしょう・・・。
さて、課題冒頭において、人が街を見ることについて、こう述べられています。「街を見るためにどこかに出かけるとき、自分がいるその場所をかなり注意深く見ますが、自分が住んでいる街では、何も意識して見ていなくて、ほとんど何気なく通り過ぎます」。私自身がどこかを訪ねたり、ある場所を探したり、旅行したりする時、確かに周辺の風景、道路、道路脇に設置された案内図などをじっくり見る一方で、日常生活の中では大きな変化がない限り、近所の建物、風景には特段注意を払いません。従って、自分の行動を振り返っても、この指摘はなるほどと納得できます。
ところで、その大きな変化についてですが、私が住んでいる地域・街においても、ここに住み始めてからのここ30年で小さな個人商店の後継者がいなかったり、経営不振だったりの理由からだと思いますが、その多くが次々に閉店している状況です。例えば、精肉店、青果商、理髪店、中華料理店、クリーニング店、整骨院、製麺店、薬局、お茶屋さん、パン屋、和菓子店などあらゆる業種の店が閉店しました。このように大きな変化がある場合には、その都度気がつきますし、ちょっと寂しい気がします。私自身日常の食料品の買い物ではスーパーマーケットを利用することが多いですので、自分自身も個人商店の閉鎖の原因の一端を作ってしまっているかもしれないと思うと、ちょっと複雑な気持ちにもなりますが、時代の流れでやむを得ないのかもしれません。
ところで、私が良く理解できなかった箇所は、ドイツの美術・建築理論家ルドルフ・アンハイム氏が70年代に指摘した内容です。彼によれば、都市において建物が連続して並ぶことで、立体性・三次元性を失ってしまい、街を歩いていると、私たちはもはや建物の正面だけを見ていて、それらが二次元的な長い壁のようにつながり、まるで山岳地帯の「絶壁」のように見えるといいます。ここで彼が述べている三次元と二次元に見える風景が想像できませんでした。建物と建物とが隙間なく接して存在しているために、その隙間が見えないので、建物の奥行きがわからず立体的に見えないということなのでしょうか。しかしながら、例えば、東京の銀座の街並みを思い出しても、隣り合う建物の高さが均一ではないため、見渡しても正面だけでなく奥行きも見えますので、立体感が感じられ、二次元には感じられないように思うのですが・・・。
また、私の興味を引いたのは、デンマークの建築家で都市計画家であるヤン・ゲール氏が、中世の都市の寸法が最も適しているという結論に至ったことです。なぜならば、建築方式が基本的には時速5キロの歩行速度に合わせて設計されており、さまざまな感覚的な刺激・知覚を提供しているからだといいます。しかしながら、中世の時代の人々と比べ都市の現代人は時間に追われて歩行速度は速くなっているのではないか(データがありませんので、あくまで私の推測です)と思われますので、現代にも中世の都市の寸法が最も適していると言えるのでしょうか。
ところで、今回の課題およびテキストに登場するblindという単語に関して気になりました。課題ではSo paradox das auch klingen mag, muss man sagen, dass ・・・, an dem man so blind ist für das, was einen umgibt, ・・・.という形で登場します。
この文でのblindは形容詞として使われていますが、手元の独和辞典には以下のような用例が記載されています。
ein blinder Mann 目の不自由な人
Sein linkes Auge ist blind. 彼の左目は見えない
Er ist blind vor Zorn. 彼は怒りのあまり分別を失っている
Liebe macht blind. 「恋は盲目」(諺)
Die Sonne machte mich blind. 日の光りで私は目がくらんだ
まだまだおもしろい表現がありますが、他の表現は割愛します。
私にとっては副詞としての用法が特に興味深いです。手元の独和辞典には以下の表現が掲載されています。
blind schreiben ブラインドタッチでタイプする・書く
blind Klavier spielen 鍵盤を見ないでピアノを弾く
blind Schach spielen 盤を使わないで指し手を言い合ってチェスをする(似たようなもので日本の将棋でも「目隠し将棋」というのがあります)
最後にblindが使用された有名な一文を挙げたいと思います。これは当時のリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領(1920-2015年、在位は1984-1994年)が1985年に連邦議会で行った有名な演説(「戦後40周年演説」)の中のものです。実はこの文は今年5月のNHKドイツ語講座においても紹介され、私も改めて文意をかみしめたところでした。
Wer vor der Vergangenheit die Augen verschließt, wird blind für die Gegenwart.
「過去に目を閉ざす者は現在を見通せなくなる」(テキスト訳より)
K. K.