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Nr. 521 August 2024
さて、今月の課題では「出世したある女性が二つの世界で生きた生涯」が取り上げられています。
シュトローブルさん(Frau Strobl)はオーストリア人ですが、オーストリアの大学で学び、1979年に博士号を取得後、ケルンに移り住み、2024年1月25日に71歳で同地で亡くなりました。2020年12月17日の放送で、彼女は自身の「社会的な上昇」、つまり出世について語っています。彼女は女子ギムナジウムに通い、そのためにきちんとした服を着ていましたが、学校から家に帰宅するとすぐに着替えていました。学校で着ていた服が汚れないようにするためと、長持ちさせるためです。母親が彼女にそう求める必要はありませんでした。なぜならば、彼女が家で着る快適な服がどのみち好きだったからです。
その上、シュトローブルさんは母親にとって洗濯がいかに大変な作業であるかを知っていました。なぜならば、家には洗濯機がなく、住んでいた家には洗濯室もなかったからでした。洗濯にはブリキの浴槽しかありませんでした。彼女の母親はかまどでお湯を沸かし、その間に地下室から浴槽を持ってきました。そして、その熱いお湯を浴槽に注ぎ、その中で洗濯をしました。きれいになったものは、冷たい水の入った洗面台ですすぎました。その後でこの浴槽で母親は二人の娘の体も洗い、最後には自分もその中で入浴しました。
シュトローブルさんが小学校からギムナジウムに進学したとき、自分の中で、二つの異なる世界を動いているという感情が芽生えました。彼女は自分が他のクラスメートとは違う服装をしていることや、夏休みに両親と一緒にスペインやイタリアに行かないことによっても、自分とクラスメートとが違うことに気がつきました。彼女は両親とだけでなく、自分自身と話すとき、例えば次に何をするべきかを考えるときも方言を使っていました。
シュトローブルさんが大学を卒業してケルンに移り住んだとき、両親と妹は温水もバスルームもない住宅から、新しい高層住宅地の広々とした新築の住居に引っ越しました。そこには、リビングルーム、両親の寝室、妹の子供部屋、キッチン、それに21階にあるため山々を見渡せるバルコニーがありました。彼女の父親にとって、それは大きな贅沢でした。
しかしながら、シュトローブルさんが友人のひとりにそのことを話したとき、その友人は彼女の感激を全く理解しませんでした。その友人は高層住宅地に住むことをひどいと感じていましたが、彼女は別の世界に住んでいる友人の反応に対しては理解もできました。しかしながら、彼女自身はそうこうするうちに両親の住居だけでなく、高層住宅地全体をすばらしいと思うようになりました。
4年前、シュトローブルさんが言っていたのは、その地区に親しみを感じるようになったということでした。というのは、その地区の住居は、彼女がそれまで住んだことのあるどの住居よりも広くて、すばらしいだけでなく、隣人が親切だったからだといいます。少なくとも大抵の隣人はそうだったそうです。彼女は、人間に優しくないひどい高層住宅地もあることを知っていたそうですが、狭くて人間に優しくない住居は何も高層住宅にだけあるわけではないことを知っていたとのことです。
それはシュトローブルさんが自らの経験により知っているといいます。なぜならば、彼女は大学時代にしばらくの間、そのような住居に住んでいたことがあるからです。年を重ねるにつれて、引っ越しを繰り返す中で彼女の住環境は改善されていったということです。しかしながら、多くの友人とは違って、恐らく一生、分譲マンションを保有することはないだろうとのことです。
シュトローブルさんは、多くの友人とは異なる世界から来ており、ドイツにおいても二つの世界で、つまり外面的だけでなく、内面的にも生きてきました。一方では、ラジオ放送の仕事をし、本を書いてきた作家ですし、仕事に関してはいつもきちんとした服装をしていましたし、カフェで「シュピーゲル」や「ツァイト」を読んだり、コンサートや美術館に行ったりするのが好きでした。しかしながら、他方では、労働者地区出身の女の子でもあり、テレビの連続放送番組を見るのが好きで、家ではトレーニングウェア〔ジャージー〕を着て、年齢を重ねるにつれて方言を話すことが多くなりました・・・。
さて、今回取り上げられているラジオ放送は2024年2月21日のものですが、実はこれは2020年12月12日に行われた放送の再放送とのことです。これを担当したシュトローブルさんは2024年1月25日に亡くなられたとのことですので、残念ながら彼女自身がこの再放送を聞くことはありませんでした。
シュトローブルさんが語る自身の生涯の中で印象的だったのは、彼女が女子ギムナジウムに通学するようになった時から、自分がクラスメートとは違う服装をしていることや、夏休みに両親と一緒にスペインやイタリアに行かないことによって、自分自身が貧しい家庭に育っていることを自覚したことでした。思春期の多感な年頃にそのような感情を抱いたことはショックも大きかったのではないかと想像しますし、彼女は「二つの世界で生きている」ことを初めて思い知らされます。しかし、一方ではそのような感情をいだいたことで、一生懸命勉強することにより、将来はよりよい生活をできるようになりたいと考えたのではないかとも想像します。
放送において紹介されている他の二人についても少し触れておきたいと思います。
マリオン・ゾルバッハ(Marion Sollbach)さんも、二つの世界で生きています。彼女も日中は1,000ユーロもする価格のスーツを着用し、高価な腕時計を身につけ、外向けにリーダーシップを示していますが、家に帰るとそのようなステータスシンボルはすぐ脱ぎ捨てて、一番快適と感じる服に着替えます。あるときはジーンズやセーターですし、またあるときはソファに座るためのジャージです。ただ、シュトローブルさんよりかなり若い(1967年生まれ)ということもあり、幼い頃のシュトローブルさんほどは貧しい生活はしていなかったようです。従って、ゾルバッハさんの二つの世界は、出自に影響された二つの世界ではなく、オン(職業生活)とオフ(プライベートの生活)という二つの世界なのではないかと思います。
ゾルバッハさんに関して印象に残ったのは、父からは職業訓練を受けるように言われましたが、反対を押し切って大学に進学しますし、進学後でも尚職業訓練を受けるようにいわれますが、アルバイトで学費を稼いだり、奨学金をもらったりすることにより生物学を学ぶことをやり通したことです。祖父は未熟練労働者であり、父親は配管工として働き、夜間学校で技術製図の追加教育を受けた(後に大企業の従業員代表委員会の議長に選ばれました)家庭で育ったことが影響していたのかもしれません。彼女はその後、修士号を取得するだけでなく、環境管理に関する追加の研修も受け、ある病院において3年間、環境担当者として勤務し、現在は大企業のサステナビリティマネージャーを務めています。一方で意外に感じたのが、彼女が1986年以来のSPD党員であることです。
イルマズ・ジェヴィオル(Yilmaz Dziewior)さんも、二つの世界に生きていますが、シュトローブルさんやマリオン・ゾルバッハさんとは出自が異なるようです。彼は現在、美術史家であり、ケルンのルートヴィッヒ美術館館長を務めていますが、トルコ人学生と看護助手としてアルバイトをしていたポーランド系ドイツ人の母親との私生児でした。つまり、家庭環境や文化的背景が彼女らとは異なります。その意味では彼にとっての「二つの世界」は、異なる文化的背景によるものだと言えます。
イルマズ・ジェヴィオルさんに関して印象的なシーンだったのは、彼の家に遊びに来たクラスメートの女子生徒の一人に本が少なかったことを指摘され、以後本を読むようになり、現在の仕事につながる美術に情熱を注ぐようになったことです。これは興味深いエピソードだと思いました。
3人とも社会的に成功していると言えると思いますが、出自や環境は異なります。しかしながらおそらく3人に共通しているのは、それぞれが受けた教育が果たした役割が大きかっただろうということだろうと思います。
ところで、思わず内心クスッとしてしまったのが、放送の冒頭においてシュトローブルさんが学業を終え博士号を取得した時、彼女の祖母と母親との間で交わされた会話が紹介されている箇所です。テキストでは間接話法で紹介されていますが、直接話法に変換すると以下のようなやりとりになるのではと思います。
母親(誇らしげに)「おばあちゃん、イングリトは今や晴れてドクターになったのよ!」
祖母「で、どこの病院でこれから働くんだい」
母親「どこの病院でも働かないわよ。あの子は医者になるための勉強はしてないから」
祖母(いらだった様子で)「じゃ、一体何のために勉強して、ドクターにまでなったんだい」
シュトローブルさんが学業を終え博士号を取得した1970年代にはまだ、高齢の祖母の頭の中には「ドクター=医師」という固定観念があったのだろうと想像できますが、当時は彼女だけではなく、一般的にもそのように思われた時代だったのでしょうか。それともそのように考えた高齢の祖母は例外だったのでしょうか。いずれにしても母親の誇らしげな様子と祖母の失望といらだった様子が対照的に描写されており、私には印象に残るシーンでした。
これを読んだとき、私は遙か半世紀前の自分自身の経験を思い出しました。大学生になった最初の夏休みのアルバイト先(機械工場)において、ある年配の親方から大学で何を勉強しているのかと尋ねられ、「ドイツ語です」と回答した際に、「じゃ、将来は医者になるのかい?」とさらに尋ねられ驚いたことがありました。かつての日本の医療現場では確かにドイツ語が広く使われていたと聞いています(明治時代から昭和初期までは実際に医師がカルテをドイツ語で書いていたといわれていますし、今でもその名残としてクランケ、カルテ、ムンテラ、オペ、レツェプト、ギプス、アレルギー等のように一部のドイツ語由来の単語は残っているようです)ので、彼の頭の中には「ドイツ語=医師」という古い(?)固定観念があったとしても不思議ではなく、当時の私も何となく理解もできました。もっとも、私がそのような経験をしたのはそれが最初で最後でしたので、当時でも一般的には「ドイツ語=医師」と考える人は相当少数か、または例外であり、その年配の男性に固有のものだったのではないかと思いました。
K. K.