Kommentare zu
Nr. 522 September 2024
さて、今月は「独り言」という少々ユニークな話題が取り上げられています。
「独り言」というと、多くの人はまず劇場を思い浮かべます。そこで話されるのがモノローグです。舞台上での「独り言」では、俳優は観客に理解されるように話します。しかしながら、舞台上に彼以外の誰かがいても、その人はそのモノローグを全く聞いていないかのようなふりをしなければなりません。
日常生活では、「独り言」は、その際に、たとえ大きな声で話しても、誰にも聞かれてはなりません。「独り言」では、自分自身と話します。従って、これは実際には会話ではありません。会話においては、相手と話し合うものですが、「独り言」は、しかしながら、自分自身とだけ話すものだからです。しかしながら、「独り言」で言う内容によって、自分自身も驚くことがあります。
マイヤーさん(Herr Meyer)は以前、鏡の前に立っている間に突然大きな声で「我々はこれを変えなければならないのだ!」と自分自身に言ったという経験をしました。これによって彼は、自分自身に行動を起こすことを要請しましたが、それが何に関することかははっきりしていませんでした。いずれにしても、それは彼自身に関することでした。
しかしながら、それは他の人々にも関わることでしたが、ちょっと変るべきなのが、どのようなグループなのかは彼には明確ではありませんでした。そこで話していた人は、彼自身でした。しかしながら、自分自身の中のどの部分が何かを指摘しようとしていたのか自問しました。しかしながら、大抵の「独り言」において、話すことがどこに由来するものかははっきりしています。
ブッツァーさん(Herr Butzer)はアウクスブルク大学の文芸学の教授です。彼はまた、人が「独り言」を言っている間に、誰かが肩越しに見ているような感覚を持っています。彼は古代と現代の「独り言」を区別しており、現代の「独り言」においては、この第三者的存在が背景に退き、ある種の観客のような立場を有すると考えています。
彼が指摘するのは、現代の「独り言」の特定の形態の位置が精神分析において自由連想を行う患者の状況と比較できると言うことです。その患者の隣には、介入しないけれども、すべて言われたことを解釈する者が座っています。
離婚してもう長い71歳の女性が飼っている猫と話すのも、一種の「独り言」です。彼女が猫に「あなたはもう年老いた猫なの?」と尋ね、「私たちはどちらも年を取ったわね」と言うと、猫はこれに同意しなければならないですし、また彼女の「ねえ、あなたはどう思う?」という質問にも回答は当然聞くことができないのも明らかです。
彼女はもう、少し忘れっぽくなりました。リビングルームで、台所で何かをやろうとしたり、台所から何かを持って来ようとしたりするのをちょっと思い出します。そして台所に行きます。ところが、台所に行くと、そこでしようとしていたのが何だったのか、もうすでに忘れてしまいます。それが切っ掛けで、自分自身を注意し、自分に「まあ、ギッタ(Gitta)、考えを集中して(しっかりして)!」と言います。その際、彼女は、自分のファーストネームで自分に話しかけます。
ギッタは、「時々、私は自分自身と話しますが、そうすると私たちは二人で笑うのです」と言います。つまり、そこでは、彼女にとって、「独り言」を言っている自分自身とその彼女と話している別の人間が存在しているのです。彼女が朝8時または8時半に目覚めると、まだベッドにいる間に、また遅く寝てしまったことで自分を責め、今やそろそろ起きるよう自分自身を促します。しかしながら、それをすぐには実行できませんが、自分を奮い立たせ、ようやくベッドから出てきます。しかしながら、彼女は時々10時半までベッドにいました。
祈りはある人々にとって一種の「独り言」でもあります。彼女のある祈りの中で、ザフィーラさん(Saphira)は、神が自分を喜び、誇りに思っていることに感謝します。人々が時々言葉を使わずとも理解し合うという感覚を持つように、彼女もまた言葉を使わずに祈ります。祈りは彼女にとって、常に一種の意識です。つまり、一人ではなく、相手が存在するという意識です。以前は、神は彼女にとって、散歩に出かけたときも話し相手でした。例えば、自分の気分が良いか、悪いかなどすべてを語ることができました。今は、彼女は神とつながっているために、以前ほどは言葉を使わなくなっています・・・。
さて、今回は「独り言」がテーマになっています。課題や放送を聞いて私がまず思い浮かべたのが、テレビに向かって話したり、文句を言ったりする高齢者のことです。彼らのことは以前から聞いたり、見たりした経験があります。テレビに対して話したり、文句を言ったりしても、テレビは反応しませんので、「独り言」になるのだろうと思います。今回マイヤーさんやギッタさんが鏡の前で「独り言」を言う場面は、相手としてのテレビが鏡に置き替わったのものとして捉えることができると思います。そしてその場合、異なるのは、テレビの中の登場人物に対してではなく、鏡に映ったもう一人の自分が存在し、これに話しかけるという点です。これらは、私も似たようなシーンは複数回何かの映画では見たような気がしますが、私の実生活の中では中々想像できないシーンです。
ところで、ギッタさんが彼女の飼い猫のカーシー(Kasi)に話しかけるのも「独り言」とされていますが、私は必ずしもそうとも言いきれないような気がします。ラジオ放送においては、ギッタさんの問に対してその都度この猫が「ミャウ」(実際の録音ではなく、効果音であっっても)と鳴いているのが聞こえます。当然人間との会話とは異なりますが、かといって全くの「独り言」とも言えない気がします。我が家でもかつて多頭飼いで猫を飼っていましたが、その私自身の経験からはそう思います。例えば、朝または夕方の給餌の時間になると、私もしくは妻に近づいてきて、「ニャー」と鳴きます。それは餌の催促だと分かりますので、「わかった、今用意するからね」などと話したものです。また、冬には布団に入ってきたいとき、枕元にきて「にゃー」と鳴きます。これも動作を伴った意思表示だと理解できますので、「どうぞ」と言って掛け布団を開けます。対話と言うには短すぎますが、Aという猫の「要求」に対しBという私たちの「回答」があるという点においては「会話」と言えなくもない気がします。これに対して、ギッタさんが鏡の前または拡大鏡の前でいろいろと話す様子は、明らかに「独り言」だと思いますが、鏡や拡大鏡の前で結構長く話す様子は、「独り言」を通り越して一種のホラーにも見え、不気味な感じがしなくもないです。
一方で、ギッタさんは忘れっぽくなったとのことですが、放送での話すスピードは非常に速く、快活な印象を受けますので、71歳にしては大分若い声に感じられ、忘れっぽいという状態とはそぐわない感じを受けました。
ところで、今回の課題やラジオ放送を通して、私は対話型ロボットを思い浮かべました。AI技術の進化により、これを搭載した対話型ロボットが日常生活や医療、介護などの分野で活用され始めているようです。私の身近には対話型ロボットがありませんので、実感がわきませんが、調べてみた限りにおいて、高齢者にとっては、コミュニケーションの支援、メンタルケア、健康管理、安全確保などにおいて、一定の役割を果たすツールとして期待されているようです。その一方では、デメリットとしては、対話型ロボットに過度に依存するリスク、特に高性能のものはコストが高いこと、プライバシーの懸念、故障や不具合のリスクなどがあるようです。要するにバランスを考えた上での活用が望ましいと言えます。
さて、今回の「独り言」と言うテーマですが、課題およびラジオ放送に登場するマイヤーさん、ギッタさん、ザフィーラさんのそれぞれの事例は理解できたと思います。しかしながら、それ以外の部分、例えば、ブッツァー教授の言説などに関しては私の理解が及ばない箇所が多々あったように思いますので、ちょっと難しかったと言う印象です。
ところで、テキスト20ページ10行目以下においてギッタさんについて以下のような記載があります。
„Gitta, 71 Jahre alt, 5 Kinder, lange schon geschieden, 10mal Oma, 1mal Uroma.”
私がおもしろい表現だと思ったのは、後半の„10mal Oma, 1mal Uroma”の部分です。その前の5 Kinderは普通に理解できますが、その後に続く„10mal Oma, 1mal Uroma”は、文脈を考えれば„10 Enkelと1 Urenkel”、つまり「10人の孫と一人の曽孫」と同義であると推測できます。それにしても「10回おばあちゃんになり、1回曾おばあちゃんになった」という表現は何ともユーモラスに感じるものでした。この表現がドイツ語圏においてどの程度一般的なものであるかはわかりませんが、こういう言い方もあるものだなぁと思いました。ひょっとすると„5 Kinder”は、„5mal Mutter”とも表現できるのでしょうか。私の知る限り、英語でも日本語においてもこのような表現は聞いたことがありませんが・・・。
K. K.