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Nr. 523 Oktober 2024
さて、今回は「公の場での謝罪」について取り上げられています。
過ちを犯し、それを後悔している人は、その過ちについて謝罪し、相手に許しを求めます。彼は相手に、その過ちを許してくれるように頼みます。政治家は有権者・投票者に許しを求め、子供は両親に、また逆に両親も子に許しを求めます。もしそれが重大な過ちでなければ、罪とは言わず、単に許しを求めるだけです。誰かに何かをしてくれるよう頼む場合、このお願いで相手に迷惑をかけることになり、そのために謝罪し、例えば、このように言います。「すみませんが、私が駅へどう行ったらよいか教えていただけませんか」
何かを後悔している政治家は、その後悔をしばしばテレビやインターネットで公にします。彼らの言葉で誰かを傷つけたと非難された場合、彼ら自身はそうは思っていなくても、例えば、「もし私がそれで誰かを傷つけたのであれば、それを非常に残念に思います」と言います。そして、誰も傷つけるようなことを言ったとは思っていない場合でも、「万一それで私が誰かを傷つけたかもしれないのであれば、それを非常に残念に思い、そのことについて謝罪します」というようなことを言うでしょう。
このテーマに関する二部構成の番組シリーズ「知識」(„Wissen”)の第一部においては、番組の放送作家が社会や政治において謝罪がどのような役割を果たしているかについて理解しようと試みています。メルケル氏はかつて、彼女は深く後悔し、すべての国民に対して許しを求めるとさえ言ったことがあります。富裕な国の大統領らもまた、彼らの国が責任を負っていた植民地支配について謝罪することがあります。
プロテスタント神学において良心の概念は重要な役割を果たしています。これは、敬虔な人々にとって、他人に謝罪を請う動機になります。例えば、プロテスタント教会の議長であり、牧師であったケースマン氏(Frau Käßmann)は、血中アルコール濃度1.54パーミルで赤信号を無視して車を運転したため、辞任しました。その際には、彼女にとって、自分自身への尊敬と敬意の問題でもありました。これは、彼女の一貫性をとても示していましたし、政治家らの謝罪にはしばしば、この一貫性が欠けていると感じられます。
VWグループでは、長年にわたり自動車の排ガス浄化装置を操作し、排出基準を遵守していませんでした。この排出ガス・スキャンダルが2015年に明らかになった後、同グループは大々的な広告で、VWブランドへの信頼を回復するために全力を尽くすと約束しました。この状況においてVWブランドへの信頼回復をVWの人々がとりわけ重要視したことについて、しかもそれを明確に述べたことに対し、多くの人々が非常に怒りました。なぜならば、VWの所有者・ユーザーのことは全く考えられていなかったからです。
その場合に、VWに乗っていた多くの人々にとって最大の懸念・不安は、排ガスの排出量が多すぎるため、自分の車では都市の中心部にもはや乗り入れられなくなるということでした。多くの人々は新しい車を買わなければならなくなることを恐れ、そのための資金をどこから調達すればよいか分かりませんでした。
言葉を巧みに操ることができる人は、謝罪のための適切な表現を見つける努力をすることにより、企業から多額の報酬を受け取ることができます。しかしながら、そのような表現を見つけることは特に難しいわけではありませんが、心から出たものではないために、しばしば説得力に欠けます。これは当時のVWグループにも当てはまりました。
あるフランスの哲学者には、謝罪を求めるジェスチャーは、まるでそれがセンセーショナルな見世物であるかのように、しばしば芝居がかっているように思われました。そこで重要なのは、その演劇に両側が参加することであると彼は言います。この理論を彼はある論文において展開し、実際に許されないような人類に対する恐ろしい犯罪、例えば、虐殺やジェノサイドについても許すことができるかを論じました。彼は、ジェスチャーが適切であり、言葉がふさわしく、そして演劇の枠組みが理解されているならば、それは可能であると考えました・・・。
今回は、「公の場での謝罪」が取り上げられていますが、いくつかの事例については理解できる一方で、テキストで触れている、フランスの哲学者ジャック・デリダ氏が述べている「許しの劇場」(„Theatre of Forgiveness”)やトロステン・モース教授が述べている神学的観点から見た謝罪の主目的などについてはよく理解ができませんでした。
謝罪の失敗例として挙げられているのは、2015年にVWの排ガス操作のスキャンダルが明るみに出た際の謝罪です。一方では、成功例としては1970年12月7日、当時の西ドイツのブラント首相がワルシャワ・ゲットーの犠牲者の記念碑の前で突然ひざまずいたことが挙げられています(ブラント首相のこの行動は予め決めた議事次第には含まれていなかったようです)。私は当時、この事実をリアルタイムでは知りませんでしたが、数年後大学でドイツ語やドイツの歴史を学ぶ中で知り、この写真を見たときはとても衝撃を受けたのを思い出します。一国の首相または大統領が他国において、例えば戦争の犠牲者に献花をする光景はしばしばマスメディアでも報じられますので、私たちが目にする機会も多いですが、ブラント首相が行ったような行動は、普通はまず考えられないと思います。ブラント首相としてはそれほど深い謝罪や謙虚さを表現しなければならないと考えたのだろうと思います。
今回の課題および放送において政治家の謝罪が例として紹介されています。「私が誰かを傷つけたのであれば、それを非常に残念に思い、そのことについて謝罪します」という発言については、日本においてもマスメディアでしばしば聞いたり、見たりする常套句であり、日本独自のものかと思っていましたが、ドイツにおいても同じだと思いました。
今回VW社の謝罪が失敗例として取り上げられましたが、最近のニュースによれば、トヨタに次ぐ世界第2位の自動車メーカーである同社グループは、10%の賃下げや工場閉鎖などの大規模なリストラに踏み切る方針を打ち出したとのことでした。これに対して労働組合は強く反発していますが、バッテリー式電気自動車(BEV)の国内での販売低迷や中国事業での不振という課題を抱えるVW社としては、正念場を迎えているようです。ドイツを代表する企業の一つでもあるVW社には困難を打開し、是非復活して欲しいものです。
ところで、VW社に関しては個人的な思い出があります。私が半世紀以上前にドイツのゲーテ(リューネブルク市)でドイツ語を4ヶ月間(2ヶ月のコースを2回)勉強していた際に、1回目のコースではAusflug(2ヶ月コースの講座に1回組み込まれていました)先として、ヴォルフスブルクのVW本社工場を見学しました(因みに2回目のコースのAusflugはリューネブルガー・ハイデへのハイキングでした)。当時何故VWの工場見学がゲーテの講座の一環として行われていたかは担当講師に尋ねませんでしたのでよく分かりませんでしたが、恐らく、VW工場はドイツの技術力を象徴する場所であり、外国からの受講生、特に発展途上国からの受講生向けに最先端の工場を見学する機会を提供し、ドイツの産業の一端を学んでもらうためだったのではないかと推察します。受講生は、米国、英国、フランス、オランダ、デンマーク、ギリシャなどの欧米諸国からも来ていましたが、人数的にはやはり、トルコ、イラン、ソ連(当時)、メキシコ、バングラデッシュ、韓国、ブラジル、アルジェリアなどの国からのほうが多かったように思います。ただ、私の記憶では東欧および中国からの受講生には出会わなかったような気がします。
K. K.