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Nr. 534 Februar 2026
さて、今回は、選ばれた故郷としてのウィーンが取り上げられています。
土曜日の午前11時には、「ヨーロッパの顔(Gesichter Europas)」というシリーズ番組が放送されます。そこで取り上げられるのは、1時間のヨーロッパ各国からの報告ですが、ドイツだけは除かれており、その他の国々だけが扱われています。つまり、ドイツのリスナーに向けて、ヨーロッパの外国からの話題が伝えられるのです。
1年前、その番組ではウィーンからのクレッペルさん(Frau Kreppel)の報告を聞くことができました。彼女は、80年代半ばにウィーンへ引っ越してきました。当時、まずは街を見て回ったのですが、観光客が数時間だけで市内観光をするバスではなく、ウィーンのすべての路面電車の路線を、それぞれ少なくとも一度は終点まで乗り通すことにより、路面電車から街をじっくり見ました。
彼女がウィーンに引っ越すことを決めたとき、彼女はドイツのフライブルク・イム・ブライスガウ(Freiburg im Breisgau)に住んでいました。そしてウィーンは彼女にとって特に文学を通して魅力的でした。その文学とは、ウィーン生まれではなく、後にウィーンにやって来るか、ルーマニアのような国々からウィーンに移住してきた両親を持つ作家たちが書いた作品のことです。
地下鉄(U-Bahnen)は、地面の下、つまり地下を走ることからその名がついていますが、実際には一部が地上、つまり高架区間を走る地下鉄もあります。ウィーンではこのような区間が特に多いのが「ギュルテル(Gürtel)」沿いを走っている6号線、つまりU6です。地下鉄のその区間では、明るくなり、乗客は顔を見上げます。そのために、そこでは地下鉄のことを、まるでのジェットコースターのように「高架見物列車(Hochschaubahn)」とも呼ぶこともあります。
U6のその区間から外を眺めると、そこに広がる都市空間について示唆に富む光景が見えてきます。とりわけ「創業時代(Gründerzeit)」に建てられた、かなり老朽化した建物が多く見られます。この時代には1870/71年の戦争後の好景気の中で多くの企業が創業され、労働者や社員のための住宅が必要でした。多くの労働者にとって、こうした住居は、とりわけ寝るためのものであり、リビングキッチンでは、食事を作ります。
70年前、多くのハンガリー人がハンガリーからオーストリアへ、特にウィーンへと逃れてきました。彼らの中には、1929年にブダペストで ユダヤ人の両親のもとに生まれた一人の言論人、パウル・レントヴァイ氏もいました。彼はハンガリーで国家社会主義(ナチス)の独裁を生き延びましたが、共産主義の独裁からは逃れてきました。
彼らの隣国オーストリアでは、ハンガリーからの難民たちはウィーン州、そしてとりわけウィーン市で寛大に受け入れられました。そしてその内1万4千人はウィーン市にとどまりました。なぜならば、自分たちはハンガリー人としてウィーンの人々に特に好感を持たれていると感じたからでした。彼(パウル・レントヴァイ氏)は、今ではそこにほぼ70年暮していますが、とても居心地良く感じています。1959年にはオーストリア国籍を取得し、それ以来、自分のことを「ハイフン付きオーストリア人(Bindestrich-Österreicher)」と称しています。なぜならば、彼は今でもハンガリー人でもあるからです。彼は、そこがとても気に入ったためにとどまった異邦人・外国人です。
ウィーンでは、特に東欧出身の多くのユダヤ人たちが、経済の発展や芸術・科学の分野の発展において大きく貢献しました。1933年以降、隣国でユダヤ人に何が起きているのか誰の目にも明らかだったにもかかわらず、多くのユダヤ人はウィーンを離れる決心をしませんでした。そこにとどまったほとんどすべてのユダヤ人は、1938年以降、オーストリアの国家社会主義者の政権のもとで殺害されてしまいました。
しかしながら、逃走に成功した人たちの中には、戦後ウィーンに戻って来た人もいました。ウィーンでは、ほとんどすべてのユダヤ人が追放されるか、または殺害されたという事実は、今では多くの記念のプレートが伝えています。そして、ユダヤ人墓地にある、しばしばもう誰も世話をしなくなってしまった数多くの忘れ去られた墓を見るときにも、そのことを思い起こさせられます。
ウィーン第10地区では、地下鉄のU1号線が市の中心部と南の周辺地区を結んでいます。そこでは外国にルーツを持つ人々の割合がとくに多く、およそ50%に達しています。その地区では麻薬の取引が多く行われているため、市は武器を禁止する保護区域を設けています。また、家庭に対しては社会教育的な支援も提供されています・・・。
さて、今回の番組はアントーニア・クレッペルさんという女性のウィーン・レポートに基づいて制作されています。彼女自身がウィーンには既に1980年代半ばに移住してきていますので、40年もの長い間住んでいる計算になります。自らも移住者であることから、移住者の目を通して、自ら選んで住み着いた他の移住者を観察しているようです。ちょっと驚いたのは、彼女が住み始めたばかりの頃、街を知るためにウィーンの路面電車で利用可能なすべての路線を乗り通すという方法をとったことです。放送によると、それは合計180キロにも及んだとのことです。当時彼女はまだ20代半ばだと仮定すると、体力・気力も十分あったと思いますので、そのようなやり方でウィーンの街を知ろうとしたのでしょうか。
ところで、今回私の印象に残ったのは、課題および放送に登場する、ユダヤ人の両親のもとに生まれた一人の言論人(パウル・レントヴァイ氏)です。1929年にブダペストで生まれた彼は、非常に過酷な運命、すなわちホロコースや独裁政治から生き延びてきました。1959年にはオーストリア国籍を取得し、今はウィーンで平穏に暮していますが、これまで筆舌に尽くしがたい経験をしてきたのだろうと思います。
そして現在、96歳の高齢になっているにもかかわらず、2025年7月に「私は何者か(„Wer bin ich?”)」という著作を出版しています。96歳にして著作を出版するなど、今なお精力的に活動をしていることには驚きます。彼のホームページを閲覧すると、この書籍に対しオーストリアの著名な政治ジャーナリストであるアルミン・ヴォルフ(Armin Wolf)氏が以下の推薦文を寄せていることがわかります。
Wer ist Paul Lendvai? Ein österreichischer Patron mit jüdischen Wurzeln und ungarischem Akzent. Ein Überlebender der Shoa und zweier Diktaturen. Ein europäischer Journalist von Weltrang. Ein Zeitzeuge mit Zweifeln, Irrtümern, Einsichten und beinahe einem Jahrhundert Erfahrung. Was für Leben!
「パウル・レントヴァイとは何者か?ユダヤ系のルーツを持ち、ハンガリー訛りのドイツ語を話すオーストリアのパトロン(言論界の重鎮?)。ホロコーストと二つの独裁体制の生存者。世界一流のヨーロッパのジャーナリスト。疑念、誤り、洞察およびほぼ1世紀におよぶ経験などを併せ持つ歴史の証人。なんという人生だろう!」
また、東欧から移住してきたユダヤ人たちが芸術や学問を活気づけ、ウィーンの経済発展に大きく貢献したことを改めて認識しました。
ところで、ドイツ語圏の高齢の知識人ということで思い出しましたが、今回の課題に取り組んでいる最中に、ユルゲン・ハーバーマス(Jürgen Habermas)氏が3月14日、96歳で亡くなったことが日本のメディアでも報道されました。彼の思想については、私自身は勉強したことがなく、著名な哲学者としてしか知りませんが、日本のメディアによりますと、討論を重ねる「熟議」によって、より良い政治的決定をもたらそうとする「熟議の民主主義」を提唱したとのことです。また、NHKのニュースによれば、同氏の死去を受けて、ドイツのメルツ首相が声明を発表し、その中で「ドイツとヨーロッパは、現代における最も重要な思想家の1人を失った」とコメントしていたとのことです。メルツ首相がそのようなコメントを発表したのは、ハーバーマス氏が一知識人・哲学者という枠を超えた大きな存在だったからだろうと思います。
ところで、私は、オーストリアがドイツと同様、連邦州から構成される国ということはおぼろげながら理解していましたが、ウィーンに関してはオーストリアの首都であると同時に一都市としてしか意識していませんでした。従いまして、今回登場した連邦州としてのウィーンが、全く自分の中の記憶の中から抜け落ちていたことが分かりました。つまり、ウィーンはベルリン、ハンブルク、ブレーメンなどと同じ都市州であることを今回再認識しました。また、テキストによれば、首都ウィーンの人口は現在約200万人ですが、その内約半数は移民の背景を持っているとのことです。それほど外国人比率が高いことにはとても驚きました。
K. K.