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Nr. 441 April 2018
さて、今回は、ドイツ・ポツダム市にあるBabelsberg(バーベルスベルク)公園(庭園)がテーマです。放送では、約40年という長期間に亘りこの公園の再建に力を尽くした造園家Karl Eisbein(カール・アイスバイン)氏がこの公園の中を歩きながらインタビューを受けています。
バーベルスベルク公園(庭園)は、1833年ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世(1797年~1888年)が宮殿の庭園を造るよう命じて、Peter Joseph Lenné(ペーター・ヨゼフ・レネー)氏が取り組み、その後任のFürst Pückler(ピュックラー侯爵)がその業務を引き継ぎました。ところがその後この公園は、その立地故に東西ドイツの分断の歴史の影響をもろに受けました。例えば、公園敷地内にはおよそ公園には似つかわしくない国境フェンス、立ち入り禁止地帯、見張り台、国境警備犬用の施設など国境につきもの諸施設が設置されると共に、遠方まで良く見通せるように木の枝も切られてしまいました・・・。
人がドイツの造園建築について話題にするとき、ピュックラー侯爵がWörlitz (ヴェルリッツ), Branitz (ブラーニッツ)およびBabelsberg(バーベルスベルク)で創作した造園家としての芸術作品をまず頭に浮かべます。その手本は英国の庭園でしたが、ピュックラー侯爵は英国よりもずっと多くの道を設置しました。そして、このようにしてずっと多くのSichtbeziehungen (視界?)とBlickachsen(景観?)を生み出しました。
バーベルスベルク周辺のハーフェル川沿いに広い岸辺の道を既にレネー氏が設置しましたが、ピュックラー侯爵が設置した多くの小道は訪問者が殆ど気づかない内に次から次へと新しい美しい眺望へと、そしてその公園が実際より大きく、かつ神秘的に思わせるような視界へと誘っていきます。2,3歩行くと、そこでは遠くに小さな丘が現れ、さらに歩くと、その丘は既に手が届くほどの近さにあるような印象を与えますが、もう一歩進むとその丘はもはや見えなくなります。消えてしまったように見えます。
州都ポツダムの一市区であるバーベルスベルクでは、宮殿が建てられ、その宮殿の庭園が最初はレネー氏が設置する予定でしたが、9年後にピュックラー侯爵に交替しました。レネー氏は、雨水が素早く染み込んだ結果、植物が余り良く生育せず、多くの植えた植物が枯れてしまうような砂を含んだ地面の対応に苦慮していました。ハーフェル川から蒸気機関を使って水を汲み出すことは費用がかかりましたが、他に手段がありませんでした。ピュックラー侯爵は大がかりな蒸気機関をネオゴシック風の城壁のように見える機械室に隠していました。
その水を使って噴水、滝その他の仕掛噴水なども稼働させました。そして、バーベルスベルクには湖も造成されました。その湖は、水深1メートル足らずです。四つの小さなアーチ型の島には、穏やかに水が打ち寄せています。その内の一つにはリンゴの木が植えられています。そのリンゴの木は、デンマークの童話作家Martin Andersen(マルティン・アンデルセン)の物語を想起させます。一羽の白鳥が森の静寂の中で湖の上を飛び、リンゴの木がある島に金の卵を落としたという物語です。その湖には100年の間全く水は存在しませんえした、今やハーフェル川から再び水が汲み入れられました。
この120ヘクタールの大きさの造園の芸術作品を復元・再建することに対しては1972年から2008年まで、途中1989年7月から1990年8月までの1年間の中断を挟みながらアイスバイン氏が心を砕きました。彼がそこでこの作業をスタートしたとき、自由に使えたのは、わずか1台のトラクター、1組の馬車、1台の電動ノコギリ、それに7名の同僚だけでした。西ベルリンとの国境のため、その土地は今日の公園の3分の2しかありませんでした。復元については何も考えられませんでした。とにかく、そこが荒れ放題になることは阻止しようとすることだけが重要でした。
この公園はアイスバイン氏の熱烈な愛着の対象であり、人生です。この公園を復元・再建するために、アイスバイン氏は古い計画をじっくり参照しました。ベルリン王宮の保管庫に納められていたものは第二次世界大戦中に焼失してしまいましたが、バーベルスベルクの庭師木屋の屋根裏部屋で古い設計図を含むファイルが発見され、その古い設計図の中に1880年の設計図も存在しました。その上、アイスバイン氏は、手紙や日記も見つけ出し、これらを分析しました。
とあるバーベルスベルクの花屋が庭園修復技術者たちに贈呈した一冊の家族のアルバムの中でアイスバイン氏は一枚の写真を発見しました。それは1935年にバーベルスベルクの中でVictoriahöhe(戦勝記念塔)からPfingstberg(フィングストベルク)方向に向かって撮影されたものでした。この写真を見ると、木々が本来そうあるべき高さほどは高さがありませんでした。アイスバイン氏の推測したところでは、その二つの丘陵の間の視界を作り出すために、木々を最大限8メートルの高さまでしか成長させなかったのではないかということです。さらに、このハーフェル川越しのこの眺望は、ピュックラー侯爵により設置された壮大な景観の一つであろうと推察しています。
これを復元するために、アイスバイン氏らは1975年~76年の冬にそこの300本のオークを伐採させました(現在なら伐採阻止運動が起き、オークが鎖でつなぐようなことになるだろうとアイスバイン氏は想像します)。レネー氏もとピュックラー侯爵も、自分達がそこで造成したものは150年後になってようやく日の目を見るのだということ、従って自分の芸術作品を自分自身では決して体験できないことを知っていました。彼らが心に思い描いたものを、アイスバイン氏とその同僚達が復元しようとしています。しかしながら、そのような公園はとても長い時間がかかります・・・。
上記に、「レネー氏もとピュックラー侯爵も、自分達がそこで造成したものは150年後になってようやく日の目を見るのだということを知っていた」という箇所がありますが、ちょっとこの「150年」というのは想像しにくいです。新たに植えた樹木が生育するのに30年~50年はかかるだろうと想像されますが、150年という長い期間というのは何を意味するかは良く分からない点でした。それでも例えば今新たな造園を行った場合、その「果実」は現在の世代ではなく将来の世代が享受するというのはやはりロマンを感じさせます。東京都北区に在住の私としては近くの庭園といえば、六義園があります。従来は桜咲く季節の六義園しか知りませんでしたが、今回の放送・課題を通して別の視点で六義園を見ることができるかもしれないと思っています。また、アイスバイン氏らが約40年に亘る長期間、心血を注いで復元・再建したバーベルスベルク公園・庭園が今後も後継者らにより業務が引き継がれ、長く後世に伝えられることを願いたいと思います。
さて、Babelsberg(バーベルスベルク)という地名に関しては、私を含め一般のドイツ語学習者にとっては余り馴染みがないような気がします。実は私自身もNHKドイツ語講座(2017年11月号)で、ユニバーサル映画株式会社(ウーファー、Ufa)がこの地に1917年に設立され、広大な撮影所を開設したことを知るまではBabelsberg(バーベルスベルク)という地名を聞いたことさえありませんでした。ナチス時代には、同社はプロパガンダ映画を制作するだけでなく娯楽映画も量産したようです。その意味ではドイツ映画の黄金期を支えた場所ということができると思います。現在は同社はベルテルスマン傘下にあり、引き続きこの地に本拠を置いているとのことです。今後、Babelsberg(バーベルスベルク)という地名は、私の中では「公園と映画の街」として記憶されるだろうと思います。
K. K.