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Nr. 446 September 2018
さて、今回は、第二次世界大戦末期の東プロシアからの難民がテーマです。第二次世界大戦末期から戦争直後にかけて東プロシアからの難民であるブットゲライト (Buttgereit)さん一家にとって、復活祭(イースター)の日曜日は特別な意味を持ったことが二度ありました。1945年の復活祭の日曜日は、その一家にとって戦争終結前の7週間半に亘る、1940年以来ナチスに占領されていたデンマークにおけるソ連の赤軍からの避難が終わった日でしたし、1947年の復活祭の日曜日は、その一家がフランス軍占領地区にあるシュバーベンのビーベラッハアン・デア・リス(Biberachan der Riss)のかつての戦時捕虜収容所に収容された日でした。その後に、連合国は、どの難民がどこへ収容されるのかを決定しました。1947年5月、その一家はシュバーベンのロイトリンゲン市のジッケンハウゼン地区(Sickenhausen bei Reutlingen)に辿り着きました。
赤軍が東プロシアにおいて彼らの方に向かって徐々に近づいて来た時、1944年12月にはこの一家の避難行は既に始まっていました。避難命令が下ったのが大分遅すぎました。ブットゲライトさんは、ナチスのこの地区の農民を統括する立場として収穫の取り入れに対しまだ連帯責任がありましたが、既に同年秋にはそのロシア軍兵士たちから逃げるために密かに馬車一台を艤装していました。
しかしながら、そうした後にはブットゲライトさんはまた、兵士に戻らなければなりませんでしたので、夫人と15歳のハンナ(Hanna)と17歳ゲルトルート(Gertrud)の二人の娘は、ブットゲライトさん抜きで荷造りをしなければなりませんでした。馬車は夫人が操縦して農場から出しました。当然のことながら、一家は戦争が終わったらまた自分達の農場に戻って来たいと思いましたが、ドイツは敗戦国となっており、戦勝国は、ドイツ東部地域の大部分はポーランド領に、そして僅かな一部はロシア領となることを決定してしまいました。
ドイツ人がその地に帰還することなどはもはや許されるはずもありませんでした。こうして難民たちは「故郷を追われた人々」となっていきます。多数の難民がダンツィヒ(Danzig、現在の「グダニスク」)に行こうとしました。ダンツィヒとナチスが1939年9月20日以降ゴーテンハーフェン(Gotenhafen「ゴート族の港」の意)という名前で呼んだグディンゲン(Gdingen、現在の「グディニャ」)では難民用に800隻もの軍艦や商船が停泊していました。難民たちは、これらの船でバルト海経緯の西への避難行が成功することを願いました(一家も乗船したかったのですが、幼い子たちが優先されたため、席が取れず、同じ海路でも潜水艦に乗船せざるを得ませんでした)。
ブットゲライト一家は、とても苦労をしながら3月末にようやくダンツィヒに到着しました。ダンツィヒには大きな港がありましたが、1939年、第二次世界大戦が勃発していたところでした。この都市は自由都市ダンツィヒの市当局機関の所在地でしたが、1939年10月26日以降はナチスの帝国大管区ダンツィヒ・西プロシア(Danzig-Westpreußen)の当局機関の所在地となりまし。冬の間に300キロメートルの距離を馬車でそこまで走らせるのは不可能でした。しかもその年は零下30度にもなるような気温で特に厳しい冬でした。ケーニヒスベルク(Königsberg)手前の20キロメートルの所で一家はその馬車を馬共々置き去りにしなければなりませんでした。そこからフリッシェン・ハフ(Frischen Haff)という潟沿いに進んでもダンツィヒまではまだ150キロメートルもの距離がありました。
ブットゲライトさんは兵士でしたが、自分の家族が避難行でどこへ辿り着いたかを偶然知ってからというものは、再び家族のところに行きたいと思いました。一方、ブットゲライトさんの娘たちも自分達の避難行の行き先がどこなのかを父に伝えるために父のところに行きたいと考えました。ブットゲライトさんは、娘たちと会うためには、戦闘地域を通過しなければならず、そこで弾丸が命中してしまい、重傷を負い動けなくなってしまいました。戦友たちがブットゲライトさんを待つ家族のもとに連れて行きました。戦友たちは彼を連れて行きましたが、重傷のために軍用車両に乗せてさらに少し走りました。この運搬走行中にブットゲライトさんは亡くなります。享年47歳。寒さで地面は凍結し、亡くなった人で埋葬できた者は誰一人いませんでした。ブットゲライトさんの家族もその冬の最も寒い連夜のある夜にブットゲライトさんの遺体を道路の端に横たえました。この時以来、当時17歳のブットゲライトさんの娘のゲルトルートにとって暑い夏の日でももはや暖かいと感じることはなかったといいます。
シュバーベンではこの3人は好意的に迎え入れられました。3人と更に子供を抱えたある未亡人がトラックで30キロメートルほど移送された後で、市長から歓迎の挨拶を受けました。市長は標準ドイツ語を話そうと大いに努めました。なぜならば、市長がシュバーベン訛りで話した場合、彼らが殆ど理解できなかったからです。料理店を兼ねた宿屋で、彼らは市長や未亡人一家と一緒にエンドウ豆のスープを食べました。その後で、市長はブットゲライトさんの家族に対しベッド三台と机一脚が備えられた部屋を案内して見せてくれた。5月のことでした・・・。
今回の課題・放送では第二次世界大戦末期から戦後にかけて苛酷な運命に翻弄された人々が登場します。特に放送では難民たちは避難行の途中に多くの兵士、女性、子供、それに老人の死体が道路脇に横たわっているのを目にしながら進んだことや、ブットゲライトさん一家も父親の遺体を埋葬もできず道路脇に放置していかざるをえなかった生々しいシーンなどが重く心に残りました。また、グストロフ号の海難事故を聞いていた一家は脱出の最後の手段として躊躇しながらも潜水艦を利用することを選択せざるを得ませんでしたが、それに乗り込むとそこには亡くなったドイツ兵も横たわっていたといいますから、壮絶な体験だっただろうと想像します。放送時点で90歳になるゲルトルートさんにとって、この避難行の時の経験が73年後の現在でもトラウマとなって未だに脳裏から消え去ることがないのは戦争の残した癒えることのない爪痕だと言えます。一方では、この一家が生き延びて最後には、シュバーベンのジッケンハウゼンに辿り着き、市長の歓迎の挨拶を受けますが、市長がシュバーベン訛りではなく標準ドイツ語で話すことに心を砕いたというシーンは思わず私には微笑ましく感じられました。
さて、放送で数千人(一説には一万人)ものドイツ人難民を乗せた「ヴィルヘルム・グストロフ号」が出港直後にソ連軍の魚雷により撃沈され、1,252名しか生存者がいなかったことが触れられていましたが、以前に読んだ池内紀氏の「消えた国追われた人々東プロシアの旅」(2013年刊)という紀行文に「グストロフ号事件」について書かれていたことを思い出しました。推定死者は9,000余名であり、「史上最大の海難事故」とのことですが、海の事故ということではタイタニック号しか出てこず、グストロフ号は出てこないようです。池内氏は、その理由として「戦後、ナチスの罪業が糾弾されたなかで、バルト海の海難事故は政治的に封印されたからだ」と指摘していますが、この見解にはなるほどと納得した次第です。私自身この「グストロフ号事件」については、同氏の紀行文を読むまで知りませんでしたので、読後歴史に埋もれた事実を知ることができて良かったと思いました。尚、ギュンター・グラスの晩年の作品である「蟹の横歩き」(原題は、„Im Krebsgang”)はこの事件を扱った小説ということですので、同氏の翻訳(原書は難しそうですので)で読んでみたいと思います。一般のドイツ人の中にもひょっとすると「蟹の横歩き」により「グストロフ号事件」について初めて知るようになった人々もいたかもしれませんが、実際に出版以前にはどれ位の割合の人が知っていたか興味があるところです。
K. K.