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Nr. 455 Februar 2019
さて、今回の内容は、44年振りで再会した同級生三人がそれぞれ歩んできた人生、現在の心境およびものの考え方などについて語っているものとなっています。その内の一人エゴン(Egon)は今回の放送の担当記者でもあります。担当記者自身が番組の内容の一部を構成しているという点において前回1月(Nr.454)とは形式的な類似点があります。
三人の男の子、すなわちクラウス(Klaus)、フレッド(Fred)それにエゴンは上部ライン地方(Oberrhein)の小さな村の出身です。彼等は1967年から1973年まで一緒に同じ実科学校に通っていました。今回クラウスは自分の60歳の誕生日会を開催し30人ほどの客を招待しましたが、その中に当時の同級生であるフレッドとエゴンも含まれていました。
さて、クラウスは現在、ポルトガルに住んでいますが、故郷の村の両親の家には屋根裏部屋をまだ持っています。しかしながら、彼の故郷の村をもはや故郷とは感じていません。彼にとって故郷とは、人生の伴侶であるブラジル出身のパオラ(Paula)と生活を共にしている場所、すなわちポルトガルです。クラウスは再三折に触れて生まれ故郷の村に好んでやって来ますが、死ぬまでずっとそこに留まることは考えられません。
フレッドは現夫人のロスヴィータ(Roswitha)とは14歳か15歳の時に知り合いました。それまではエゴンがフレッドの一番の友人でした。フレッドは、しばしばエゴンをモペットの後部座席に乗せてくれました。二人はフレッドのモペットで一緒に学校に行くだけでなく、週末にはよく近隣の村のスポーツ、消防、射撃それに釣などに関する各種イベントにも出かけました。ところが、フレッドがロスヴィータと知り合いになってからというものは、もはやエゴンをモペットに乗せなくなりました。それ以来エゴンに代ってロスヴィータがフレッドの後に座ることになりました。フレッドはエゴンより1歳年上でしたが、14歳になったとき、エゴンが自分とは異なるように成長し、他の道を選択し、異なる行動をしたと感じました。
フレッドは実科学校を卒業後、大学で更に学ぶことができるようにするため、ラシュタット(Rastatt)の技術系ギムナジウム(Technisches Gymnasium)へ進学しました。1975年、フレッドは19歳の時に、カールスルーエ大学で機械工学を学ぶために家を出ました。彼はその後29歳になってようやく故郷に戻る決心をしました。父親が重度の心臓病だったからです。フレッドは両親を大変身近に感じていました。彼は仕事関係の出張が多く、例えば米国、インド、中国に出かけますが、故郷に戻ると心が安まります。フレッドは村の東の外れでリビングルームから自宅から15キロ離れたシュヴァルツヴァルトを眺めます。
ところで、フレッドとこの放送の担当記者であるエゴンは、ライン川を運行する船の上で育ちました。フレッドは後に彼の兄およびエゴンの姉と全く同様、ライン川で船を運行することを家業としている家族の子供用の施設で過ごしました。なぜならば、この子たちはそうしなければ定期的に学校に通うことなどできなかったからです。しかしながら、エゴンは、マンハイムのその施設の雰囲気が、母親がエゴンの姉を訪ねるために自分をそこに連れて行く度に、自分が就学義務に達しその施設に入所しなければならない場合、母親に自殺で脅すほどひどいと感じるほどでした。そのためエゴンの母親は、エゴンが6歳になったとき、姉もその施設から引き取り、夫、つまりエゴンの父親と一緒に船上生活をもはや送ることがなくなり、二人の子供達と一緒にグレフェルン(Greffern)で過ごしました。そして父親は乗船する船の種類を押し船に変更し、3週間おきに、すなわち14日間乗船した後はその後の7日間を家で過ごすようになり、その間は子供達と一緒にいるようになりました。
さて、クラウスの父親は第二次世界大戦中アフリカで兵士として戦い、これにより筋金入りの平和主義者になりました。彼は戦時捕虜としてほぼ一年間米国にいました。兵役に対する彼の考えは子供達にも影響を与え、息子たちは、従って兵役代替社会奉仕勤務を行うことに決めました。一方フレッドは、まずは連邦国防軍で兵役に就きました。ところが、すぐそれは自分には適していないと気づき、兵役を打ち切って兵役代替社会奉仕勤務を行いました。
さて、クラウスは既にテュービンゲン大学で化学を学んでおり、後にフランスでワイン醸造学(ギリシャ語でÖnologie)を修めました。ワイン醸造学においてクラウスは博士論文も書いていました。彼はブランデーの製造、すなわちワインから製造されるアルコール含有量15%以上のアルコール飲料の製造を専門的に研究していましたが、現在はポルトガルの企業の製造監督部門で働いています。その会社ではとりわけポートワインの製造のために、ワインをブランデーに蒸留することが行われていますが、彼はそこでは特に品質管理を担当しています。
クラウスは既に子供のころから化学に興味を抱き、その後も変わりませんでした。しかし、エゴンは自分は将来どうすべきか分かりませんでした。そこでまずはドイツ連邦郵便に勤めました。そして彼はシュトゥットガルトへやって来ましたが、大都市生活に馴染んだ職場の同僚とうまくいきませんでした。彼は結局、郵便局勤めを辞めてから、後年アビトゥアに合格後、ベルリンでドイツ文学・語学を学び、後年パリ在住中ラジオ関係の仕事に出会しました・・・。
さて、フレッドがモペットを運転していた70年代はまだ運転免許を必要としなかった時代だと思われますが、最高スピードが時速40キロ程度に制限されていたとは言っても、今思えば14歳または15歳の少年の運転というのは、危険な行為だったのではないかと私には思えます。しかもヘルメットの着用もしなかったといいますから尚更危険だったろうと推察します。村での運転とはいえ、交通事故がなかったのは本当に幸運だったと思います。
ところで、60歳の誕生日を迎えたクラウスが今回、30人程を招待しましたが、誕生日を迎える本人が客を招待するというのは、日本とは逆だと感じました。というのは、日本では誕生日を迎えた人は招待されることが一般的だからです。私が約30年前にドイツ勤務中にこれと類似の経験をした時は、日本との違いを感じとても驚いたことを思い出しました。
私がまた驚いたのは、フレッドやエゴンが船上で親と過ごしたという点です。確かに両親共乗船していればどこかで預かってもらえない限り他に手段がないわけですが、今まで船乗りの家族の幼い子供がどこで過ごしているかなどということは考えたこともありませんでした。日本では恐らく父親が船乗りの場合(母親だけが船乗りというのはちょっと考えられませんので)、母親が家庭で幼い子供の面倒をみているというのが一般的ではないかと想像します。さて、フレッドは1歳から6歳まで船上で過ごした後で、施設に移ります。一方、エゴンはその施設に収容されるなら自殺するとまで言って母親に抗議したといいますが、母親に連れられて姉を訪ねるたびに、エゴンは一体その施設で何を見て、具体的にどう感じたのでしょうか。放送ではその雰囲気をtraurigと感じたと表現されていますが、具体的にはどのような状況だったのでしょうか。いずれにしても、幼いEgonは相当ショッキングな光景を目にしたのだろうと思います。
ところで、エゴンが職場で休憩中にBild-Zeitungを読んでいることを女性の同僚から非難される箇所が印象的です。エゴンとしては父親が普段家でやっていることをしていただけでしたが、Bild-Zeitungがどのような評価を受けている新聞かを考えれば軽率な行為だと分かったはずでしたが、当時は考えが及びませんでした。また、小さな村の出身のエゴンは、自分の田舎のしゃべり方や習慣を断ち切ろうとしますが、経験不足や無知から来る劣等感を抱き続け、結局自分の居場所がなくなって職場から去ることになります。職場にはそのような彼を受け入れてくれたり、話し相手になってくれたりする人物との出会いがなかったことが原因だと思いますが、それが彼には不幸だったのかどうかは判断できないと思います。なぜならば、その時点では残念なことだったかもしれませんが、その挫折があって、後年アビトゥアに合格後、現在の仕事に就いていることを考えれば(殊に彼が現在の仕事に満足ならば)、郵便局を辞めたことは良かったとも言えるからです。エゴンに関しては父親との関係で強く印象に残ったことがもう一つあります。それは、エゴンが郵便局勤めを辞め、青少年ホームで実習をしていることを父親に伝えた際、父親から浴びせられた「お前は私の人生での最大の失望だよ」という言葉です。これにはエゴンが深く傷ついたものと思われます。父親にしてみれば郵便局勤めは将来の安定が保障されている良い職場であると理解していましたので、息子の行動が全く理解できなかったとはいえ、怒りに任せて激しい言葉を発してしまいました。これはエゴンには相当ショックだったろうと思います。もっとも、エゴンが事前に父親に相談もなく辞めたことも窺われますので、息子の退職は寝耳に水で、父親も感情的になってしまったのかもしれません。
さて、今回の放送・課題においては、クラウスとフレッドの故郷に対する考え方の違いが描写されている箇所が興味深いものがありました。クラウスは現在ポルトガル在住ですが、故郷の村の両親の家には屋根裏部屋をまだ持っています。しかし、彼の故郷の村をもはや故郷とは感じておらず、自分の人生の伴侶であるパオラと生活を共にしているポルトガルが故郷だと考えています。生まれ故郷の村に時折戻ってくることは好きですが、死ぬまでずっとそこに留まることは考えられないといいます。一方、フレッドは現在故郷に戻って生活しています。実科学校を卒業後、大学で更に学ぶことができるようになるため、ラシュタットの技術系ギムナジウムに進学し、19歳の時にカールスルーエ大学で機械工学を学ぶために家を出ましたが、その後29歳になってようやく故郷に戻る決心をしました。彼は職業上海外出張も多いですが、故郷に戻ると心が安まるといいます。彼等と比較し、エゴンは故郷に対してどのような考えを持っているのでしょうか。また、兵役に関してはフレッドとクラウス共、代替の社会奉仕を行いましたが、エゴンに関しては連邦国防軍で通常の兵役を務めたのか、それとも二人と同じく代替の社会奉仕を行ったどうかは触れられていないようです。二人と比較する上では私としてはエゴンに関するこの二点も知ることができれば更に良かったと思います。
K. K.