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Nr. 465 Dezember 2019
さて、今回は、母親の死が遺された娘・息子にどう影響したかがテーマとなっています。そして、番組では母親の死を経験した二人の女性のその死の前後の心の動きが紹介されています。その内の一人は本放送の執筆者のシュトレーローさん(Frau Strelow)であり、もう一人はショルツさん(Frau Scholz)という女性です。その他にも番組ではペーターさん(Herr Peter)という男性も紹介され、劇的とも思える母親の死の経緯が生々しくレポートされていますが、前述の二人の女性の場合とは異なり、死後の心の動きの描写はありませんでした。
さて、母親の死は、多くの人にとって同時に自身の幼年時代の終焉でもあります。つまり二重の意味での別れ・離別です。放送の執筆者であるシュトレーローさんは、自分はまもなく60歳になると語りますが、3年前に母親が亡くなったとき、自身は55歳で兄は60歳だったとも話します。一方、ショルツさんにとっては母親の死はもう12年前のことですが、ペーターさんにとってはまだ2年前のことです。
ショルツさんは、12年前に母親がまた手術しなければならなくなったとき、あまり心配はしていませんでした。母親は65歳でしたし、手術も順調に進みました。ところが、気管切開が行われ、その後人工呼吸器が取り付けられ、昏睡状態に陥り、二度と目を覚ましませんでした。そして1ヶ月後、母親は死亡しました。このことはショルツさんにとって、まるで自らも一緒に死亡したように思えたといいます。
ショルツさんは常に、自分の母親の娘であり続け、自分の姉妹の妹(または姉)であり続けましたので、健全に成長したとは決して言えませんでした。母親との関係が余りに親密でしたので、ショルツさんはみずからの人生を生きることを妨げられてきました。12年後もなおショルツさんは、母親と結びついており、愛情を受け入れるという難しさを持っています。ショルツさんは、母親を愛情探求者・求愛者として見なし、それは自分にも当てはまるということを徐々に受け入れつつあります。
母親の死後、ショルツさんにとって初めて、深い悲しみと絶望の長い段階がやって来ました。しかしながら、いつかあるときにそこから強さの感情が生まれましたが、その感情がそのままずっととどまることはないといいます。ショルツさんは、母親のことを思うとき、単にほほえみ、喜ぶことができるような日々もある一方で、単に母親のほうに向かおうとする日々もあります。ショルツさんは、自分には子供や姉妹もあるものの、自分が一人きりであることを今、自覚しています。ショルツさんは、母親を自分自身の中に抱えているという気がしていますし、母親が存命中、自分が母親を愛していることを母親に表現することがあまりに少なかったと言います。ショルツさんは今、そのことを後悔しています。
シュトレーローさんは、母親の亡くなる場に居合わせることができませんでした。というのは、母親がシュトレーローさんに対し電話で、日に2回母親のところにやって来る看護師が救急医に知らせてくれ、その救急医が母親を病院に連れていくことを告げたとき、シュトレーローさんは大きな心配はしていなかったからです。シュトレーローさんは母親を見舞いに病院を訪ね、母親のベッドのところに腰を下ろし、母親の手を取りました。その時シュトレーローさんが感じたのは、母親が恐らくまもなく死を迎えるだろうということでしたが、母親の死は1,2年先のことだろうと考えたといいます。そして、これまでもそうだったように、3日経てばまた家に戻ってくるだろうとシュトレーローさんは考えたといいます。
ところが、その晩、シュトレーローさんは兄から電話をもらい、母親の具合が悪い旨、病院から電話があったと兄から言われました。シュトレーローさんは兄を車で迎えに行き病院へ向かいました。しかしながら、二人が病院に到着したときは、母親は既に亡くなっていました。その時シュトレーローさんは自分が母親の所に居てやれなかったことを後悔しました。今や母親の手はもう冷たくなっていました。それにもかかわらず、シュトレーローさんはまるで母親を安心させるかのように母親に何かを話しかけました。シュトレーローさんにとっては、すべてが突然止まっていました。シュトレーローさんは、自分は母親なしにこれからどう生きるべきなのだろうかと自問しました。
子供のときシュトレーローさんは、母親がいないのを寂しく感じていました。なぜならば、両親がお金を稼ぐために、祖父母に預けられていたからです。シュトレーローさんは不幸だったと感じていましたし、母親は後にこのことを恥じていました。しかしながら、そうした後で、母親とシュトレーローさんはこの幼い頃の10年間になすべきなのにできなかったことの埋め合わせをしました。二人は親密で仲のいい関係を築きましたし、二人が話せないことは殆どありませんでした。
しかしながら、母親の体が弱ってきて、ますます助けを必要とするようになったとき、シュトレーローさんは母親が自分に過大な要求をしているように感じました。そこで、シュトレーローさんは看護師に日に2回、母親の面倒を見てくれるよう頼みました。しかしながら、シュトレーローさんは罪悪感を抱きました。いっそのこと母親から早く解放されればいいのにとさえ願ったことも時にはありました。そして一方ではそのことが原因で泣いてしまいした。なぜならば、自分がそのようなことを考え得たことに対し恥さを感じたからです。
母親の葬儀は、彼女の母親の多くの友人たちとのお別れ会であると共に思い出の会でもありました。シュトレーローさんは、経験していることや考えていることなどを母親に報告したいと思うほど、今日まで自分が母親ととても近い所にいると感じています。シュトレーローさんはしかしながら、同時に自分が解き放たれているとも感じています。シュトレーローさんは今や、もはや母親の娘ではなくなり、妻であり、母親であり、そして祖母という存在になりました・・・。
さて、今回のテーマは「母親の死」ですので、放送では(従って課題においてもですが)父親については言及されておりません。母親が亡くなった場合、父親が存命であれば、悲しみを分かち合い、母親についての思い出について話すことなどが普通だと思いますので、放送でそれに触れていなかったのは、母親の死がその後の娘または息子にどのように影響を与えたかというテーマを扱っているため、父親に関しては登場しなかったものと思われます。それとも既に父親が他界しているため登場しなかったのでしょうか。ショルツさんの場合、母親がまだ65歳の若さで亡くなっていますので、そのショックは相当大きかったのではないかと想像します。また、ペーターさんの場合は、母親が80歳と高齢ではあったものの、比較的健康で自立して生活していたといいます。そしてそれまでは約束した時間通りに必ず姿を現していた母親がその時は、約束したランチに来なかったことから自宅での死亡が確認されたといいますから、そのショックはやはり大きかったと思います。
シュトレーローさんのように介護に苦悩する人々の話やペーターさんの母親のように死後発見される独居の高齢者の話は日本でも同じだと思いました。介護の辛さ・むなしさ、それに介護疲れに耐えきれず殺害や虐待をしてしまったり、死後しばらくの期間を経てから一人住まいの高齢者の遺体が発見されたりするというニュースも残念ながら日本でもたびたび報道されます。この種のニュースを聞くたびに本当に暗澹たる気持ちになるのは私だけではないと思います。
ところで、放送で登場するペーターさんという男性の名前ですが、このペーターさんはファーストネームではなく姓名として使われています。私はファーストネームとしてのペーターという名前は今回初めて聞きました。これと同様に、例えば作家のギュンター・グラス(Günter Grass)のように、それまでギュンター(GüntherまたはGünter)という名前もやはりファーストネームとして知っていましたが、私の30年近く前のドイツ勤務時代に会社にギュンターさん(Herr Günther)というセールス担当責任者がいたことにより、ギュンターは、ファーストネームとしてだけでなく姓名としても使用されることがあることを当時初めて知りました。ファーストネームと同じ綴りの語または発音が姓名として使われる例は他にもまだありそうです。また、姓とファーストネームが同じ綴りまたは発音の事例は日本語にもありますが、例えば、真弓(まゆみ)、恵(めぐみ)、南(みなみ)などが思い浮かびます。おそらく他の言語でもあるのだろうと想像します。
K. K.