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Nr. 537 Mai 2026
今回は、「無力感(Ohnmacht)」がテーマです。この言葉の意味は理解していました(ただし、「気絶」や「意識不明」という意味としてですが)が、話すにせよ、書くにせよ、自分自身から発する語彙の中には含まれない単語でした。
無力感(Ohnmacht)というのは、2025年10月3日の午前9時半から10時まで、グレフラートさん(Herr Greffrath)がドイツ放送(Deutschlandfunk)において語った感情です。無力感というのは、他者の無力感であれ、自分自身の無力感であれ、耐えがたいものです。彼は学校から家への帰り道で、自分が無力であると感じたときのことを今でも覚えています。なぜならば、そこにはいじめっ子と呼ばれていた一人の少年が立っていて、ひょっとすると雄牛が雌牛に対してそうであるかのような威圧的な印象を与えたからでした。
彼は彼らより2学年上のクラスに通っていました。なぜならば、彼は彼らより2歳年上だったからです。彼はずっと背が高く、自分のクラスの同級生たちよりもはるかにがっしりした印象を与えていました。学校からの帰り道では、グレフラートさんはたいてい、同級生のグループに加わって帰っていましたが、やがて他の子たちは次々と右へ、あるいは左へと自分の帰り道へ曲がっていきました。そしてその後には、角のところに、いじめっ子と呼ばれていた少年が立っていました。
その少年は、グレフラートさんをそこで待っていたかのうように見え、声を掛けてきました。たいていは「何を見てんだよ」という質問から始まりました。彼が「別に見てなんかないよ」と言うことにより、それに対して反応すると、相手の少年はそのような馬鹿げた主張に抗議しました。なぜならば、彼には目があって、その目でこのいじめっ子を見ているのは、どう見ても明らかだったからです。
そのことから殴り合いに発展することもありました。それは彼に、自分の無力さをいっそうはっきりさせる事になりました。彼は逃げることもできず、戦うこともできませんでした。自分が弱い側であることは、どう見ても明らかでした。彼は2歳年長であるその少年になすがままにされていました。体も心もまるで麻痺していたかのように動けなくなっていました。無力感は彼にとって思考ではなく、身体の現実でした。アドレナリン値は上昇し、心臓は速く打ち、彼の頭の中は空っぽになったように感じました。体は攻撃するために前に行こうとしますが、相手を攻撃することはできませんでした。彼の体は同時に逃げるために後ろに行こうとしますが、逃げることもできませんでした。その結果、肩をすくめ、太ももを緊張させた、麻痺のような状態に陥りました。
それを避けるためには、彼は目立たないように道の反対側へ渡ろうとすることもできました。しかしながら、そこではそうした場合、彼にとってはまた別の無力感を経験したでしょう。というのも、そこには彼が怖がっていた大きな犬、Zur Kroneという飲食店の主人が飼っている大型犬が寝そべっていたからです。
彼が家に帰って来ると、母親がしばしば彼にこう尋ねました。「今日はどうだったの?」すると彼は、学校ではどうだったかを少し話しましたが、自分の無力感については恥ずかしさの余り、母親には何も言いませんでした。彼の見解では、そのような弱さの感情については、人は誰にも話したくないものだとのことです。その恥ずかしさの激しさと逃れようのなさは、それを引き起こした無力感と同じくらい、彼にとっては大きなものでした。
自分が弱いのだということを、誰もが考えたくはありません。人は自分自身の無力さを恥じるだけでなく、他人の無力さに対しても恥を感じます。自分の無力さゆえの恥と区別するためにそこでFremdscham(「他の人の行為を見て自分が恥ずかしくなる感情」)という語が用いられます。そのようなFremdschamが彼を襲ったのは、彼が夏にホワイトハウスの写真を見た時でした。その写真には、非常に権力を有した8人のヨーロッパの政治家が写っており、彼らはまるで一年生が学校の校長の前に並ばされているかのように、机に座っているいわゆる自由世界のリーダーの前に座っていました。
これらの8人の政治家を彼はまず隣室で30分待たせていました。彼らは大きな権力を持つ政治家でしたが、この場面では全く無力でした。
グレフラートさんは、何より大切なのは、他者の権力にも、自分自身の無力さにも、愚かにさせられないことだという見解・意見です。自分の無力さの理由について明晰さを得ることは義務だといいます。経済的および政治的な権力行使のメカニズム・機構につて、よく知っておかなければならないといいます。また、私たちが持っている政治的手段が、私たちが恐れ、しかしながら目前に迫っていると見えるものに対して、どれほど適切であるのかを見分ける努力をしなければならないといいます。こうした考えおよび2,3の考えを、グレフラート氏は書き留めておき、放送ではまるでリスナーと話すかのように読み上げました・・・。
さて、今回は「無力感(Ohnmacht)」がテーマになっていますが、テキストの内容は私には理解するのが難しかったです。また、課題についても、グレフラート氏の少年時代のいじめっ子とのかかわりやトランプ大統領とヨーロッパの8首脳との関係など具体的な話題については理解できましたが、抽象的な部分、例えば、課題の最後のパラグラフにおいてグレフラート氏の見解が述べられている部分に関しては十分には理解ができませんでした。
上記に記載しました具体的な描写で理解できた箇所についてですが、グレフラート少年と屈強ないじめっ子とのやりとりについては、日本のテレビドラマや小説などにおいてもいかにもありそうなシーンだと思いました(この点ではドイツも日本も余り違いはなさそうです)。グレフラート少年には「目」があり、アイマスクでもしない限り、または意識的にずっと目を閉じていない限り、そのいじめっ子を見ることになります。その結果、グレフラート少年が「見てなんかいないよ」と言い返しても、説得力はなく抗弁・反論には確かに無理があります。この部分に関してはグレフラート少年には気の毒ですが、分が悪いと言わざるを得ません。では、他のどのような言葉での返し方が適切だったかと言えば、私には正解は思い浮かびません。例えば、「意地悪な君の不細工な顔を見てたんけど・・・」では逆に挑発と捉えられますし、「俳優の○○に似ていて、素敵だなぁと思った」ではおべっかであることが明白です。また単に「ああ、いや別に・・・」と曖昧に返答しても暴力を振るわれることに変わりは無かったでしょう。要するにどの様な返答をしても、難癖をつけて暴力を振るう口実を与えるだけですので、正解はなかったのだろうと思います。あり得ない話ではありますが、今のグレフラート氏が当時のグレフラート少年にアドバイスをしてあげられるとすれば、何と声がけをするでしょうか。あるいは「正解」を教えてあげられるでしょうか。
また、2025年8月にトランプ大統領がホワイトハウスにヨーロッパの8首脳を迎え、写真を撮影した状況についても述べられていましたが、私はすぐには思い出せませんでした。その後インターネットで検索後、当時の記憶が徐々に思い出されました。ただ、集合写真は動画も含め検索できましたたが、テキストおよび課題において描かれているような大統領執務室での「校長先生と小学一年生」にも見えるシーンの写真については、検索できませんでした。もっとも、トランプ大統領がよく取る手法だと思いますので、その情景は容易に想像ができます。
さて、今回Fremdschamという言葉が登場しますが、私はこの言葉を初めて知りました。私の手元の3つの独和辞典にもDuden Universalwörterbuchにも掲載されていませんでしたので、インターネットで検索すると「他人の行為を見て自分が恥ずかしくなる感情」というような意味であることが分かりました。この語に関してドイツ大使館のYOUNG GERMANYというコラムの【今週のドイツ語】に分かり易く解説されているのを見つけました。ここではその動詞形のsich fremdschämenについて解説されていますが、例えば、政治家や著名人の発言を聞いて、「うわぁよくこんなことが堂々と言えるな、聞いてるこっちが恥ずかしいよ・・・」と思ったり、家族や友人が、例えばひどく酔っ払ったりして大声で騒いだり暴れたりして「やめてよ、本当に恥ずかしい・・・」と感じたりするときの気持ちとのことでした。また、「ちなみにこの言葉は比較的新しく、2000年代に入ってからの新語と言われています。同じドイツ語圏のお隣オーストリアでは、2010年に『今年の言葉』に選ばれた」との説明もありましたので、私の手元の辞書に掲載されていないことにも納得できました。
ところで、先日のNHKのラジオドイツ語講座において、-r Klassikerという言葉の新たな意味を知りました。-e Klassikが古典文化、クラシック音楽、古典主義などの意味を表すことはおぼろげながら知っていましたので、てっきりこれらに関連する意味を有する単語だと思いましたが、ここでは何と「定番のもの」という意味で取り上げていました。このような意味があるとは知りませんでした。講座において健康法が話題になった際に、日本人講師が「例えば、ドイツではかぜをひいたときどうするんですか」と尋ねたのに対し、ドイツ人の女性ゲストがDer Klassiker, würde ich sagen, ist die heiße Zitrone mit Honig.(「定番と言えば、やはり蜂蜜入のホットレモンですね」)と回答していました。私の手元の3種類の独和辞典には、-r Klassikerについて「定番のもの」という訳語は掲載されていませんが、今回この単語の新しい意味を知りました。
K. K.